1959年、私が24歳の時、親父が亡くなった。今頃になって頭の開かずの引出しが開いた。ガタが来たからであろうか。連鎖反応のように中身があふれてくる。今度閉めたが最後、二度と開かないだろうと思い書き留めてみた。
小さな町工場から矢野丑金属工場にし、戦争中軍需工場の下請けをしていた。日蓮宗の信者で、戸籍の名前まで変えて 隆正(りゅうしょう)と名乗っていたほどである。酒は飲まないが、芝居が好きで毎日のように出かけていた。
大阪の空襲で何もかも無くし、奈良に移り住んだ。戦後口に入るものなら何でも食べさせられた。海藻ばっかりの雑炊を食べさせられたときは「死んでもいいから食べない」と、だだをこねた事を思いだす。
食料もままならないとき、近所で竹を分けて貰い、四角にし上に亡き兄貴が絵を書き、そこを彫って色をさしブローチにした。裏にピンを付け売ろうとしていたが、花より団子の時代である。そのとき作ったブローチを茶箱の蓋にはめ込んだものがある。絵は東海道五十三次です。

次に始めたのは、奈良のお寺の塔。薬師寺の塔、法隆寺の塔、室生寺の塔、であった。一層づつばらばらで作り、細かい部分は、膠で貼り付け、上下をボルトで止め、九輪が得意の旋盤でひき、彩色は兄貴がつけた。兄貴は京都美術専門学校(今の京都美大)を卒業したばかりだったように思う。
大きいものは1メートルもあった。売れたのか売れなかったのかはわからない。兄貴が結婚したとき持っていったのかもしれない。どこかにその写真があったはずだ。
次に始めたのが陶器である。楽焼ができる釜を作り、歌人を招いて遊んでもらっていたように思う。赤膚山の古瀬さんの下請けもしていた。その時の作品がわずかだが、亡き姉が保存していたので残っている。

その内、以前作った塔を陶器でつくり出した。屋根のそりがうまく出るように木で形を作り、粘土を詰めプレスで固めていたのを覚えている。その時代としては、画期的なことであった。

茶碗も随分焼いていた。これは木米写しのつもりだろう。今一椀だけ残っている。
やがて庭に畳一畳ほどの本釜を作り、お袋と2日2晩交替で薪をくべていた。2回ほど焼いて過労からであろうと思うが寝込んで亡くなった。

若いとき生駒の聖天さんの滝に打たれる修業をしすぎて、万年下痢症だった。毎日お粥さんを食べていた。正座をし姿勢良く食事をし手板。箸はアルミであった。お袋には毎日のように怒られていたが、親父が怒った事はなかったし、したい事をさせてくれた。歳と共に親父そっくりになってゆくのがわかるが、真似の出来なかった事は信仰心と根気と作品であった。
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