豪華本『吉兆』の出来る迄

吉兆さんの本を作ろうと提案されたのは、故人になられた初代柴田書店社長さんと故・大久保恒次先生だった。撮影は葛西宗誠先生で、私は大型カメラ担当と言うことで撮影前に、吉兆を知ってもらおうと言うことで、一年間毎月食事会があった。
 我々スタッフに推薦文を書きそうな人を交えての会であった.。器は、今現在、湯木美術館にあるものがでていたのである。
 10回ぐらい進んだとき、私がはずれた席であった。ある有名な人が乾山の器に、タバコを押し付けて火を消された。これを湯木貞一さんの目に入って、大変なお怒りで、わたしを呼びつけられ苦情を言われたことがあった。 それに柴田社長が飛行機事故で亡くなられ中止になった。
 次は、講談社が出版元ということで、嵯峨の吉兆に全員集まることになった。講談社の編集長、東京のカメラマン、そして我々今までどうりのスタッフであった。
 その席にご主人自ら、ホウレンソウのおしたしを黄瀬戸の銅鑼鉢の載せて持ってこられた。わたしは、これはテストだなと、とっさに思った。直径20cmはあろうという代物である。案の定、不合格でそれまでにった。
 次は、淡交社であった。早速、撮影と相成った。1時に集合、撮影は、夜の11時におわった。それから食事である。緊張のあまり胃袋が収縮しているのに、フルコースである。
 何回か撮影したが、編集の人が来なかったので、湯木さんが気分を悪くされ撮影中止となった。
 次は、大阪の創元社であったが、撮影までにいたらなかった。
 ロータリーで、保育社の社長さんと入江泰吉師匠と話が弾み、スタッフが、大久保恒次先生、入江泰吉師匠、師匠のアシスタント、私もアシスタントをかねて料理撮影、私のアシスタントと言うことで総勢6名で撮影が始まった。
 この撮影は8年かかった。毎月1回10時間、若い私に、その膨大な撮影の材料代が払えなかったくらいである。保育社に何とか小額助けてもらったくらい、火の車だった。
 しかし、今考えると、撮影たびにフルコースの吉兆料理を頂いたのだから、すごいことである。最高の器も手に触った。ものすごい財産であるはずである。
                             2000年3月記
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